『タタラシドー』 末永裕樹・馬上鷹将

8.2/10

 作画担当の馬上鷹将はジャンプで以前『オレゴラッソ』というサッカー漫画を連載していたが、鳴かず飛ばずで打ち切りとなってしまった。そんな彼がストキン準キングの原作者と手を組んで作り上げたのが、本作品である。

 多々良と獅童という帰宅部でクラスの人気者でもなく、オードリーや霜降り明星のラジオにはがきを出しているというごく普通の高校生の2人が、文化祭のステージで漫才をするという漫画である。

 この漫画は非常によく構成されており、漫才漫画や音楽漫画、とどのつまり芸術を題材にした漫画はその作品の中の作品すらも高品質でなければならない。そういった意味で苦労している漫画はあまたに存在する。本作は漫才のネタがいわば伏線回収のような役割を果たしており、獅童の学校上での失態(と評価されたもの)を昇華させている。それに加え、白眉は獅童が告白したことをクラスの男子にからかわれるシーンにある。彼や多々良はいじめられているわけでもなく、クラスで嫌われているわけでもない。実際、クラスの男子はからかった後

あいつ意外とノリよくね?

と彼への評価を上げている。このシーンは秀逸である。獅童はバカにされたことにノリよく返すも、心の底ではしっかりと傷ついている。これが多々良が青1グランプリ出場を決める動機付けにもなるのだが、本作が凡夫な作品として止まるなら、このシーンは記号的にいじめられていただろう。この作品は漫画チックではない、ティーンの実際の生活を巧みに表現している。多々良がその場では感情を爆発せず、放課後二人切のなった段階で表出させたのも見事だ。そんな彼らはエピソードをもとに多々良が書いたネタで見事、青1グランプリで大爆笑を搔っ攫う。学校とは多感な時期の子供たちの集団生活が生み出す、正義がまかり通らない、地位が物事の善悪を決める世界だ。そんな理不尽な世界で二人は漫才をとおして低い地位を逆手に取った内容で、見事下剋上を果たしたのだ。いつもはクラスでもそんなに目立たない軽音部のアイツが文化祭のライブで大歓声を受けているのを、君も目撃しただろう?そう。実際は学校のカーストの基準なんてものは、人間の魅力とは乖離しているものだ。学校で地味だったアイツもどこかの社会では、素晴らしい人間だ。学校の中がすべての世界だ、と思わされてきた日本の学生にとっては発見しにくいたった一つの希望を、気づかせてくれるのが『タタラシドー』である。

ラストの漫才をまたやってみたいという誘いは獅童が出場をもちかけた時と同様、多々良に冷静に断わられる。この天丼はクスッとした笑いを生むと同時に、また多々良も思い立って漫才を再びやるのだろう、多々良はネタ作りの才能があるからプロになるのではないか、と読者の想像を膨らます。最後までよく練られている漫画だ。

 

 

#タタラシドー

『お前の推しは俺の推し』 紺のんこ

5.9/10

 2021年現在、「推し」という言葉は日本におけるファンダム文化を最もクリアに表しているといえる。「推しが尊い」「○〇しか勝たん」「#〇〇生誕祭」という言葉はとりわけSNS上でよく登場する。その影響は特に若者の間で大きく、アニメ化もした『推しが武道館いってくれたら死ぬ』、ジャンプ+にも掲載されている『推しの子』など、漫画の題材としても度々「推し」の概念が出現する。本作も主人公である雷門帝という男性アイドルは人気のアイドルグループに所属しており、大勢のファンの推しなのである。しかしタイトルの通り、彼はふとしたことからエキストラの高校生カップルの両者に対して尊さを感じてしまい、気づいたら推していた。この「推す」の相互性は非常に新鮮で、人気アイドルであるはずの彼が一般人の二人をファン的目線でとらえ悶えるというコメディ的展開がこの漫画の幹である。

 しかし島で撮影を行った際に、彼らと出会い、その直後に彼らを見るために島に仕事を休み転校するという展開は少し突飛すぎではないだろうか。島に住んでいることが二人が離れ離れになってしまうという動機付けではあるものの、不可欠な要素ではないだろう。また、作者はりぼん出身(集英社)ということも理由の一つになるかわからないが、作画が少女漫画的、もっというと、背景や人物の動きを重視しない書き方なため、どうしてもアイドル達のパフォーマンスにダイナミックさが欠けてしまっていることももったいない。この少女漫画のユニークさは序盤の主人公のキャラ付けの面でもいえるだろう。

 このようないわゆる流行り文化を取り入れた漫画はここ最近特に、ジャンプ+などのネット媒体の漫画で増えてきており、明らかに本誌との差別化を狙っているのだろう。

 

https://shonenjumpplus.com/episode/3269754496348385344

#お前の推しは俺の推し

 

 

 

 

『湯神くんには友達がいない』佐倉準 

8.4/10

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 『〇〇は〜〜したい』というタイトルを持つ漫画、あなたは読んだことがあるだろうか?有名なものを挙げるならば実写映画化もされた『かぐや様は告らせたい』、『阿波連さんははかれない』『黒崎くんの言いなりになんてならない』などであろうか。この「SがV(C)」という形の単純な文がタイトルになっている漫画は意外にも多い。先述の『かぐや様は告らせたい』の大ヒットは少し異質ではあるものの、恋愛漫画やそれにサブマテリアルを加えた日常漫画は日本漫画界のサブジャンルとして静かに、そして着実に定着されていった。その起源は00年代のライトノベルでの説明的なタイトル文化からなのかはわからないが、現在はもはや様式美と言えるレベルにまで溶け込んでいるのは確かだ。

 

 その中の一つが『湯神くんには友達がいない』である。本作品は2012年から2019年まで週間少年サンデーS(スーパー)にて連載されていた。当初は全5回の連載予定だったが、着々と人気を獲得し、ドラマCDの発売もされた。

 この作品の魅力として、メインキャラクターである湯神裕二と綿貫ちひろ人間性についての対称性が真っ先に浮かぶ。湯神くんは根本的な信念として「友達はいらない」というスタンスを終始貫いている。

 

『俺はウジウジと過去の人間関係に脳の容量を使うつもりはない!

何故なら俺は、友達とかそういうものを必要としない人間だからだ!』

 

何度も登場するこのセリフは決して強がりではなく、心底一人で人生を楽しむことの合理的豊かさを信じているのである。しかしそんなことをしていてはもちろん、クラスや部活では浮いてしまう。が、彼はそんなことものともせず我を貫き生活していた。そこにヒロイン(彼女は基本的な物語の語り手であるため主人公でもある)のちひろが転校してくるところから物語は始まる。彼女は親の転勤に振り回され、小さい頃から何度も転校を繰り返してきており、友達作りが苦手であった。内向的ではないものの、すでに出来上がっている人間関係に自分から突入するのが怖く、嫌われないように頼み事は全て引き受けるというクラスにいる「仲良くはないけど優しい子」であった。物語が進むにつれて二人を中心に様々な登場人物とコメディや青春的展開が繰り広げられていくわけである。ちひろは湯神くんに対して、「変な人」という印象はもつものの、彼の一貫した態度や、人生観を知っていき心を許していく。物語のラストはここでは伏せるが、素晴らしい結末だったことだけは言っておきたい。

 ちひろに一般的な感情移入をこえたシンパシーを感じたのは私だけだろうか?学生の友人関係とは、クラスの中心にいる運動部のスターでもない限り、(湯神くんはそうであったわけだが。)誰しもが思い悩んだものであろう。今までの学校では友達はいたが、いざ進学してみると友達作りに出遅れてしまい、昼食は一人で食べるハメに...数少ない友達が休んで話し相手がクラスにいない...そんな経験をしたことのある人間は実は多いはずだ。そんな中で湯神くんは「一人でいること」を自信を持って肯定してくれるのだ。友達といない時、10代の若者は学校では意外に弱い。その中でなんとか拠り所を探しているなかで一人で大地に足をつけ、憮然と彼は自立しているのだ。この漫画の魅力の核はちひろへのシンパシーと湯神くんへの憧憬である。

 この作品は一般的には端役ともいえる高校生たちの学園生活を非常に写実的に描いている。隣同士の席の二人が彼女たちだけの世界で話をするシーンは、『となりの関くん』を想起させるし、文化祭でもクラスの出し物は「ゴミ箱作り」であるところなど実に現実的だ。私は学園漫画における友人関係の極めて記号的で既視感漂う展開に読者はウンザリしていた。しかし、この作品においてはちひろの転校から卒業まで、型破りな展開が散見され、そのどれもが的確に私の学生時代を思い出させるのだ。いわゆるインキャで友達が多いとは決して言えなかった私にとっては、この作品の主人公2人が忘れかけていた学生時代の私だけの思考のタイムカプセルを掘り起こし、湯神くんのような生活も悪くなかったのではないか、という後悔のドアノブに触れてくるのだ。自己啓発的なことを言うわけではないが、彼のマインドはメンタルヘルスが叫ばれる2021年において、端役の我々が幸せに生きる数少ない方法なのではないだろうか。  

 

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#湯神くんには友達がいない